村尾政樹のブログ『伝える。』

ソーシャルセクターに勤める27歳の個人ブログ。仕事や活動の記録がメインです。

私が子どもと関わる仕事をしているのは『子ども好き』だからではない

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突然ですが、私は来月で25歳になります。

「25歳になって、25歳はもっと大人だと思ってた~。」

よく友達からそのような話を聴くことがあります。私も小学校卒業の時に書いた『20歳の私へ』という手紙を数年前に読んだとき、ビックリしました。当時の私は20歳で既に結婚していて、子どももいて、お嫁さんと子どもを同窓会に連れてくると思っていたそうです(笑)。そういえば、20歳になった時にも「20歳になって、20歳はもっと大人だと思ってた~。」と話していた人がたくさんいました。そういえば、60代くらいの人同士のケンカに巻き込まれそうになったときも、私が「まぁ、大人なんですから。」と仲裁しようとしたら、その人は「実のところは歳をとっても、そんなもんよ。」と話していたこともありました。

人って、そういうことなんだと思うのです。子どもと大人は世界が分断されているのではなく、子どもも大人も人が生きていく一つの『過程』なだけ。どこかで「はい!ここから、あなたは大人です。」という区切りって本当はないのかもしれない。そことそこはつながっていて、実はとっても曖昧なもので。

私は子どもと関わる仕事をしているので、よく『子ども好き』と間違われます。確かに、学生時代の活動や仕事で関わった子どもたちはみんな純粋で、とてもめんこいです。だけど、本当は特別『子ども好き』な訳ではありません。では、なぜ私が子どもと関わる仕事をしているのでしょうか。

ヤヌシュ・コルチャックという人がいて、その人は、こう言いました。

「子どもが失敗するのは、未熟だからではない。子どももあなたと同じように人間だから、失敗するのだ。」

子どもと関わる仕事をしていると『子ども』だからよくしてあげたい、という人と出会うことが多くあります。その度に、私の頭の中では『じゃあ、あなたは、その子どもが子どもじゃなくなったとき、どうするの?』と思ってしまいます。そのような時は、この言葉を思い出していつもハッとしています。

似たような体験としては、学生時代すごくよくしてくれていたのに私が働き始めた途端、その人からの扱いが雑になった体験があります。その人も悪気があった訳ではないと思います。しかし、例えば、その人は『子ども』と自分との相対的な関係を認識して自分が『大人』であることを確立させているようにしか感じられませんでした。そして、そのような大人は『若者』になった『子ども』を『経験の浅い未熟者』として再認識し、また自分が『大人』であることを再確認しようとしてきます。まさに、これではお供えものみたいだという漢字の『子供』の通りだと思わざるを得ません。という私も関わっている高校生に「大人になったらね★」とお茶を濁そうとすると「また、子ども扱いして!」と言われて反省をしています(笑)。

つまり、私が子どもと関わる仕事をしている、今回とりわけ子どもの貧困対策に取り組もうとしているのは相手が『子ども』だからではありません。私は11歳のときに母親を亡くし、困ったことがたくさんありました。もうだめだと思ったことも何度もあります。だけど、いろんな人たちに支えられて、来月で25歳になることができそうです。だから、困っている人がいて少しでも力になれるなら『自分がされてきたように、次は自分がしていきたい』と思って今の仕事をしています。そこに『子ども』だから、はありません。たとえその子が大人になっても、どのような立場になっても必要な場合は、ずっと味方であり続けたい。困っている人がいたら、助け合おう。ただ、それだけです。すごくシンプル。

そして、書いてきたように、子どもが基本的に『人間扱い』されないことにも危機感を持っています。もちろん子どもを特別扱いしなければいけない、守ってあげなければいけない場面もあります。だけど、子どもも立派な人間です。立派に生きています。だから、厳密に言うと私は自分の仕事を『子どもと関わる仕事』というよりも『人と関わる仕事』として魅力を感じて毎日向き合っています。大人として子どもを守るのも役目だと思っていますが、今まで生きてきた人が次に生きていく人に少しでもより良いものをバトンとして渡していきたい。そのように思っています。

そのように考えていくと、『子どもは宝』なのではなく『人は宝』、別の言い方をするなら『子どもも宝』。だから、子どもにも優しくしよう。そして、その子どもが大きくなっても優しくしよう。そう言える社会を夢みて、これからも頑張っていきます。