伝える。/1 「共感」から理解へ トルコで学んだ「違いを間違いにしない」
「共感」から理解へ トルコで学んだ「違いを間違いにしない」
大学を休学して1年間トルコに留学研修で滞在したことは『カンヌ最高賞受賞作「雪の轍」に一般の日本人が出演していた!』ことで話すことが増えた。でも、得た経験や学びは他にも多くある。
トルコには、断食明けから70日後、クルバン・バイラム(犠牲祭)という祭日がある。この祭日では神様に感謝をするために生贄を捧げる羊や牛を家庭で殺し、その肉を家族や親戚と食べたり、貧しい人たちに配ったりする。
僕は友人アリの家庭におじゃまさせていただき、人生で初めて生きている羊をその場で殺して食べるという一部始終を見学した。羊の首を切り落とし、皮を削ぎ、内臓を抜き出し、各部位を切り落とす。この経験は、僕の度肝まで抜かれてしまった。
異なる文化に触れることは、それぞれの文化や価値観の中で人が生きていることを実感させられる。僕自身も日本の文化や価値観の中で生きてきたことに気付かされた。トルコでの1年間は、この違いを「間違い」として受け止めないために、それぞれの違いを理解しようとする積極的な姿勢が必要だと学んだ。
今、イギリスのEU離脱やアメリカの大統領選挙などの影響で世界は「共感」によって大きな渦が起ころうとしている。一方の文化や価値観、その存在に共感できないことへの「共感」が巨大なエネルギーを生み出している。時代の渦に巻き込まれないために、僕たちは「共感できなくても理解しようとする姿勢」が試されているのかもしれない。
ただ、理解しようとする姿勢は双方向でなければ持続せず、相手も自分も相当の労力を要する。むやみに相手へ理解を求めることは難しい。まずは自分が理解しようとすることからはじめなければいけない。そして、果てには、そのことに疲れてしまう。「共感」だけで生きている方が、よっぽど楽なように感じる。
「共感」から理解へ向けた進むべき道筋は険しい。トルコへ向かった年から5年、今年は自問自答が繰り返される一年のはじまりだった。(つづく)
◆シンポジウム「違いを間違いにしないためには」
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